黄金の王 白銀の王 ~梅子さん編~
こんにちは。
調べてみると近畿は14日にもう梅雨入りをしていたそうですね。そうだったのかと思えるくらいまだ雨ばかりという印象ではないですが、今のうちに本を買いに外に出かけ、雨ばかりを憂うことなく読書に勤しむ、そんな季節に備えてみませんか。なんて。
今日はですね、ポラン堂古書店の開店早々から、「私の棚」の隣にあった、もう一人のポラン堂古書店サポーターの棚、そちらの紹介というか、そこにある一つの作品の紹介となります。もちろん私にかわり、その棚を作った方にバトンを渡します。
サポーターズ屈指の読書量を誇る、梅子さんでございます。大学時代、出会ったときから授業中隠れて読書をしていた梅子さん(先生=ポラン堂店主の授業はまじめに受けていました)。立ったままでも歩きながらでも読書ができるという読書超人の彼女が強みとしているジャンルが、ファンタジーです。
またしても私が常日頃から読んでいない分野(いったい何なら読んでいるんだ私は)ですが、恥じることなく喜び勇んでこの場をお任せしたいと思います。
ということで、本日の紹介は沢村凜さんの『黄金の王 白銀の王』です。
梅子さんどうぞです。
沢村凜『黄金の王 白銀の王』
和風ファンタジー。
この単語だけであらすじから目が滑り落ちた事がある。
何度も、まあ数え切れないくらい。
日本の過去時代を下敷きにしたファンタジーは、作品数的にまず少数派だ。ファンタジーがカタカナであるように、そのジャンルの王道は魔法や西洋風の世界観だろう。
私がファンタジーに求める大部分も王道から逸れず、例えば雪の上を歩くエルフに心躍らせること。例えば剣を片手にドラゴンを駆る夢を見ること。例えば階段下の物置に届いた魔法学校からの手紙を読むこと。に、ある。
ところがファンタジーというジャンルは長大で、ハイやローの大項目から、中華や歴史に付属している事もある。ほとんどフィクションに近い使われ方をしているなぁと思わなくもない。
なので、あらすじにファンタジーの単語を見つけても、迂闊に開くわけにはいかない。特に和風ファンタジーに対しての警戒感は高かった。日本史の漢字人物名に嫌悪を感じて世界史を選択した過去を持っているので、個人的に合わないことが多く、読了が義務と化す危険は避けたかった。カタカナファンタジーに慣れた脳が和風ファンタジーの扉を叩く為には、圧倒的な後押しが必要になる。
踏み出すべきは、和風ファンタジーの丘。
タイトルを道標に、あらすじで迷い、ここまで来た。どうするかとひっくり返した表紙は、可愛かった。皇なつきさんの絵が、とても良かった。文章の力は偉大だと思うが、イラストの視覚情報量の多さには圧倒的なものがある。
いや、でも表紙が可愛いからという理由だけで読み始めたわけではない。だってなんだか雰囲気が弥生とか飛鳥のようで、日本史で一番苦手だった蘇我入鹿の前後二十ページを想起させられて、とても萎えた。教科書の写真やイラストが全てかわいいものに差し代わっても再読する気にはならない。
実際、初めて存在を知ってから表紙を開くまでに、数年の空白がある。何度か気にはなったが、蘇我の影を(勝手に)感じて手に取らなかった。
それでも読みたい本のリストから外れなかったのは、やはりファンタジーという言葉があらすじについていたからだ。ファンタジーという言葉には、慣れないジャンルへの緩衝効果が含まれている。※個人の感想です。
そういえば『黄金の王 白銀の王』はあらすじで「日本ファンタジー」と紹介されているが、Amazonで調べた時は「歴史大河ファンタジー」となっていた。わりと本は読む方だと自負していたが、初めて見たジャンルです。もう何でもありや。
今調べてみたが「大河ファンタジー」なる言葉は、日本放送協会の造語らしい。なんとなく雰囲気がわかる気がするから、大河ドラマとファンタジーはすごい。ということで、いい加減本題に入らなくては。
くどくどとファンタジーの広さについて話してきたけれど「黄金の王 白銀の王」に王道のファンタジー要素は一切ない。魔法や異種人間族は全く出ないし、一人の英雄が強大な敵に立ち向かって奇跡的な勝利を収めることもない。肉体の作りで言えば自分たちと変わらないだろう人間が躍動している。
壇ノ浦を制した源義経や、大政奉還の一助を担った坂本龍馬達教科書の登場人物が実在したと信じられるのは、その存在の痕跡が実態を持って残されているからだが、「黄金の王 白銀の王」は存在の証明を文章のみで行う。人間の葛藤や苦悩や喜びを、ただ文章によってのみ表現し、実際に会ったことはないのに存在していたと証拠を突き付けられる思いになるほど、葛藤も苦悩も喜びも共感させられる。
この歴史の主な登場人物紹介で、最初に名前が出るのは二人の王だ。元は同じ王から生まれた双子が、それぞれが玉座を求めたことで袂を分かち二つの一族となる。互いを殺し合う教えを子や孫に受け継いで繰り返し、憎しみに恨みを重ね続けた先に、二人はそれぞれ黄金の王と白銀の王として生まれた。
当然のように憎み合う二人の出会いは、偶然にも黄金の王が玉座に座る時代だった。互いの祖先が眠る地下墓所で、人として感情のままに殺し合い、王として剣を捨てた。立場が違おうと、二人は同じ国の王で、国を守り、民のために生きる義務があったからだ。
始めは、玉座を持つ黄金の王が優位なのかと思って読んでいたが、彼は敵である白銀の王を身内に取り込んだことで、仲間である黄金の一族から孤立する。白銀の王は敵からも身内からも疑われ、針の筵で生活を続けなければならない。
『黄金の王 白銀の王』を読み終わっていれば、前段落の比較がいかに無為なものか分かるだろう。どちらが優位とかどちらの方が苦しいとかいう話ではない。彼らは例え立場が逆だったとしても、それぞれの方法で同じことをやり遂げた、と認め合っている。前段落のような環境の中で、憎い相手の努力が、自分の努力に釣り合うものだと認められるような道行は、おそらくこの先も含めて一生、私には想像もできなかった。
ありがたいことに、二人は教科書の登場人物ではないので、一冊の本にまとまっている。ただ読むだけで、彼らが胸に秘めている葛藤までは知ることができる。期末テストで点数化されることもないので、後は何を読み取ろうと、読者の自由だ。なのでまぁもう少し、私も自分勝手に感想を綴ろうと思う。
互 いの家族や一族を殺された相手に対して、贖罪や償いをどちらも求めなかった。自分と一族の感情全てを背負った彼ら二人が持つ、あまりにも鮮烈な憎しみの感情は、目的を達成する手段の副産物でしかなかったからだ。それを贖えるのは、相手の血にまみれた玉座でしかない。
一方が生きている限り、繰り返されるだけの怨嗟の営みは、国にとっては猛毒だ。豊かに前進するはずの力を、循環と消耗に使い切ってしまう。歴史の流れを導き、国を成長させなければ諸共に滅ぶ。そうでなければ、彼らが個人ならば、決着がつくまで殺し合っていても良かった。殺し合って、死ぬ方がましだったのかもしれない。だけど彼らは個人ではなく、「黄金の王」で「白銀の王」だった。
二人は最後まで互いも相手の一族も憎んでいただろう。どんな好意を持っていても、同じ目標を持っていても、許せずに、苦しんだまま、進もうと立ち上がった。
『黄金の王 白銀の王』は憎しみや恨みに打ち勝つのではなく、薄れさせていく物語だ。
二人の王が暗い地下を出て馬を並べて話し合えるまでの、花をついばむ鶏が一人の王になるまでの長い歴史だ。
再びブログ主のあひるに戻ります。梅子さん、ありがとうございました。
文庫本一冊のはずが、何巻分も続いているんじゃないのかってくらい硬質なストーリーを思わせます。実際内容や決着も、しっかりとした、読んだものにした味わえない深みがありそうですよね。
実際、梅子さんと先生(店主)が傑作だと口を揃えるこの作品ををあまりにも読んでみたくて、ポラン堂にあるもののほかに私も自分用に買いました。これまでただ読まねばと繰り返してきた私ですが、遠くないうちに、これまで友人たちが紹介した有栖川有栖や江戸川乱歩らの作品も読んでみて、それらの感想を上げる回なんていうのもやってみたいと思います。
皆さまもぜひ、彼女らの素敵な紹介文を携えて、ポラン堂古書店もしくはお近くの書店に本を探しにいってみるのはいかがでしょうか。
お時間と場所と、天候が許す限りでございますが。
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