鬼が登場する作品『家守綺譚』~梅子さん編~
こんにちは。
毎日想像以上の大寒波で、生きるのもやっとという今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
果たしていま、温かい場所にいらっしゃいますでしょうか。
どうにか耐え忍んでいるうちに、季節は過ぎるというもので、1月最後のブログ更新になります。
あやかれるものならあやかりたいと思っていたイベント、節分が迫っておるのです。
鬼が登場する小説、のテーマが思い浮かんだものの、自身の読書量が、日ごろ読むジャンルの偏りが、どうにも足を引っ張ってしまう。私は思いました。友人に、ポラン堂サポーターズに、読書超人がいるではないか。しかもその超人、和風ファンタジーに相当強いのです。
ということで年賀状から依頼するような流れで、正月早々まる投げをさせていただきました。
梅子さんです。早くも今年2回目の登場。
どのようにしてもいいのでお任せすると伝えていたところ、梨木香歩さんの名著『家守綺譚』で記事を書いてくれました。
文庫版のほうが皆さん見慣れておられるかもしれませんが、いつもの版元ドットコムさんからは今回単行本版の画像を拝借しています。いつかポラン堂古書店で、単行本版の装丁を見てとても綺麗で感動した覚えがあったからです。よろしければまた、探してみてください。
ではここから、梅子さんです。
梨木香歩『家守綺譚』
十年に一度の寒波、積もる雪を見るのなんてランドセル以来じゃなかろうかでした。まさかこの歳で街灯の下、雪だるまを作ることになろうとは、鬼寒かったです。つまり季節は鬼ですね。鬼と言われて最初に浮かぶのは、ぬ〜べ〜。左手の鬼がかなり大きかった記憶があります。桃太郎やら一寸法師なんかの鬼達も見上げるほど大柄な種類で、怖さ強さ悪さを推してくるのですが、家守綺譚ではいわゆる小鬼種が登場する。小鬼としても小柄中の小柄、手のひらサイズである。
ぶらぶらと散歩をする語り手が偶然見つける野良の小鬼は、道端でぐーすか寝ていて人間が近づいても起きもしない。
金銀財宝は持っていなさそうだし、打ち出の小槌を持っていたら自分に使うだろうから、高名なヒーロー達に退治される心配も無いとはいえ、そこら辺の鼠よりも警戒心がないようだ。
珍しいなと観察して、一緒にふきのとうを探す。それきりの出会いかと思ったら、なんでか庭で見かけるようになる。気ままなだけかと思えば、人語を理解して移れと言われた木に大人しく住み替えたりもする。え、可愛い。どれだけ眉なしの般若を想像しても、手のひらサイズというだけで、そこに可愛らしさを見出してしまうのは遺伝子にかけられた呪いではないだろうか。
家守綺譚には鬼がもう一種登場するのだが、小鬼とは並べられないので桜鬼という名前だけを紹介するに留める。
語り手は文章だけでは食べられないが、プライドをしっかりと持ち合わせた作家の男。謝礼を貰いながら知り合いの家を預かり、庭の草木に自由に成長する権利を与えた男が、伸び放題の植物と共に季節を移ろって生きている。
たぶんこの語り手は、犬よりも頼りにならない。うん。狸に惑わされるわ、竹に迷わされるわ、人魚を網で覆うわ、そもそも犬のついでのようにご飯のお裾分けを……くれるお隣、すき焼き誘ってくれる和尚、迎えにきてくれるサルスベリ、雰囲気イケメンの旧友。頼りにならないから、周囲に恵まれている。ほっとけない人、人間社会においては最強かもしれない。
しかしついつい小言を垂れたくなる対象でもあるので、どうしても一つだけ。たまに風を通すくらいと頼まれたとして、預けられて住んでるからには、床踏み抜いて芽吹いた植物が天井を這うまで見守ったら、あかんやろう。
だけどこういう人だから、あっちとかこっちとの狭間にゆらりと居座れる。どちらかに大きくふれてしまう人は、あっちに気づかないまま人生を終えるだろうし、こっちから飛び出して戻れなくなりもするだろう。どちらも楽しむには、丁度よくふらふらする才能と、道案内をしてくれる犬が必要になるのだ。
サルスベリに惚れられたから始まったのか、湖で行方不明になった友人が掛け軸から出てきたところが始まりなのか。掛け軸から鳥が飛び出すような不思議が、男の日常に混ざっていく。似たような経験があるわけでもない様だが、特別奇妙とも思わず受け入れていく姿勢が、読者が感じるほどの奇妙ではないのだと語っている。
現代の目で見ると、不思議では済まないような異変も、日常のちょっとした不思議として練り込まれる時代、というのか。文化の違いなのか。現代との時間の繋がりを感じさせる文章だが、同じ水が流れたとも思えない。家守綺譚の時代の水には明らかな不純物があって、不味くはないが味がついている。現代の濾過水しか口にした事がない人間には、蛇口から味のついた水が出る事を奇妙だと受け取ってしまう。家守綺譚の持つ独特の雰囲気は、他人が持っている普通の価値観を言葉で説明するのが難しいように説明しずらい。
感想を言葉にしようとする程、小説内の日常と現実の日常の差異を比べて並べる様な違和感がつきまとう。たぬきが人を化かす、訳がない。カッパが庭で脱皮をする、訳がない。白木蓮が雷の子を孕む、訳がない。小説の中の世界なんだから、訳がない事が起こる。訳じゃないのだ。この本には、確かに人の生活がある。生活があって、生活でしかないから不思議が当然と溶け込んでいる。事件も事故も無い、ありふれた毎日がただそこにある。
日々起こる狐やら神やらとの出来事を「今日の夕食は初めて食べるカレーライスでした」くらいの驚きで受け入れ、つつがなく暮らしていく姿は、遠い場所にいる自分に新鮮なだけで、住む人の姿を見るに騒ぐほどの事もない。ならただ静かにページをめくっていよう。そんな心持ちにさせられた小説だった。
梅子さん、ありがとでした。
彼女が話していたのですが、鬼の小説というのはなかなかたくさんあるのです。
鬼が登場する……だと、青崎有吾さんの『アンデットガール・マーダーファルス』や西條奈加さん『千年鬼』、鬼とタイトルにあるもの……だと道尾秀介さんの『鬼の跫音』やサポーターズの一人・香椎さんが愛してやまない江戸川乱歩さん『孤島の鬼』、あとは吸血鬼や天邪鬼が登場したりタイトルについたり、膨大にあるようです。
先生(ポラン堂店主)も、節分に合わせて店に置きたい鬼作品があるとか。
どうでしょう、この楽しみがいのあるテーマ。
皆さんもどうぞ考えたり、探してみたり、そして読んだりしてみてください。おすすめです。
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