「旅」がテーマの棚があります
こんばんは。
8月の前半が瞬く間に過ぎていきますが、皆さま、この夏やりたいことは順調にこなせていらっしゃいますでしょうか。
時勢もあって旅行やイベントには行けないという方も引き続きいらっしゃると思います。
そんなこんなで今回のテーマは「旅」。
旅に行けなくたって、旅っていいな、行った気持ちになれるなという本が山ほどあるわけなので、満たされない部分はどうかそこで手を打ってみてはいかがでしょう。
ポラン堂古書店には「旅」というコーナーがあります。
旅本というと、旅行ガイドや旅行記、有名人の旅行エッセイなどジャンルだけでもたくさんありますが、何せ小説読みなものですので、今回の記事も小説です。
写真にある中の旅小説を3冊をご紹介いたします。
筒井康隆『旅のラゴス』
旅の小説の代表といって間違いない作品で、1984~1986年に連載、1994年に新潮文庫版が発売されて以降、新潮文庫のロングセラー本でしたが、2015年に原因不明の大ヒットをかまし、日経新聞に取り上げられたのでした。今でも本屋に面出しされている光景は珍しくありません。
そして恥ずかしながら、今回このブログで記事にしたいという気持ちをきっかけに初読を果たしたのですが、1、2頁でいやこれ面白いぞ、と居もしない隣の人の肩を叩きたくなるような文章で、誰が火をつけたかわかりませんが2014年頃からの謎ブームが、遅ればせながらとても素晴らしいものに思えたのでした。
ラゴスとは主人公の名前です。
どうして『ラゴスの旅』でなく『旅のラゴス』なのか。
学生の皆さん、もし読書感想文でお悩みでしたらこの議題で作文用紙を埋めてみてください。学生の頃にこの本に出会えていたら、私がそれをやりたかった。
作品の舞台は異国といっても異世界とっても別の惑星といってもいいでしょう。そもそも連載がSF雑誌からですし、全て語られない世界観はその考察を滾らせます。
ただ、だからといって何ら難しい文章ではありません。文章は全て「おれ」の一人称であり、冒頭の章でラゴスは24歳、時折やけに落ち着いて見えるものの、共感できる人間らしさの多い人物です。彼のひとところに留まれない性質も、奔放だとかやんちゃだとかいう話ではなく、一冊全体を通じて理解できるものへとなっていきます。何より、学問への意欲と敬意のある姿勢、その知性は本好きとして好きにならざるを得ない要素です。
つまるところラゴスの魅力にがっつりと心をつかまれてしまった私ですが、実際彼は物語の中でも本当に多くの人間に好かれ、どうにかして自分のところに引き止めたいと思わせる人間なので、私が惹かれるのも仕方がない。
まだラゴスに会っていない方でしたら、どうぞ会ってみてほしいです。
西加奈子『舞台』
二十九歳の男一人旅inニューヨーク。
普通なら(単語ごとのイメージを捉えれば)、いかにニューヨークが素晴らしいか、一人旅が有意義なものかが語られる内容であったでしょう。
しかし、この作品は「パンがまずい」という文章で始まります。
看板をなんと読めばいいかわからない「なんとかDINER」に朝食の為に入るが、パンもまずいしコーヒーもまずい。Wi-Fiも通じないし、コーヒーは少し減るたびにウェイトレスがなみなみ注いてくる。しかし英語力がない海外に不慣れな観光客と見られたくないがゆえ、ウェイトレスのコーヒーも断れないし、Wi-Fiが通じているふりをしてスマホを見るしかない。
決してニューヨークを批判する小説ではありません。主人公の葉太が、本人も自覚していることですが、あまりにも不器用でかっこわるいという小説です。
けれども、私がこの作品をたいへんに気に入っている理由が、この葉太のかっこわるさでなのです。
彼はタイムズスクエアに行き、あまりに「タイムズスクエアすぎる」こと、「タイムズスクエアにいる自分」を耐えがたく感じます。すぐ隣で観光客が平気で楽しそうに写真をとったり、ガイドブックを広げてあちこち指を指しているのが耐えられない。そんなことをすれば、観光客がはしゃいでいるとしか思われないのに。葉太はそんなことを思われないために、『地球の歩き方 ニューヨーク』を暗記してきているというのに。
ただ葉太にはこの旅で唯一自分に許している「ニューヨークすぎる」ことがあります。それはセントラルパークの芝生で寝転がって本を読みたい、ということ。
とにかく人にどう見られるかを気にする主人公ゆえの、この作品タイトル。あらすじにあるようにこの後盗難にあって無一文になりますが、彼はその時どうするか。彼がニューヨークに来た本当の目的も含め、たいへん奥深く、いとおしい小説です。
多和田葉子『百年の散歩』
「カント通り」「カール・マルクス通り」「プーシキン並木通り」などベルリンの通りの名前を章タイトルにし、ひたすらぶらぶらと歩くような連作集です。
散歩が旅か旅でないかはさておいて、読者の私が日本人なのもあってのこの異界という感じは今回のテーマに並べたいと思ったのです。
冒頭は奇しくも『舞台』と同じようにカフェ、というか喫茶店。『舞台』と違ってセロリと焦げ目のあるピーナッツが入ったスープが出てきますが、そのスープがうまいとかまずいとかはどうでもいいかのように、主人公は周りの観察をして好き勝手に物思いにふけっています。通りの人や客を見渡して、ナタリーと勝手に名付けて親しみを持ってみたり、左斜め前のテーブルを見てその身振り手振りの激しさから会話を想像してみたり、スープに浮かぶ豆を見つめて、グリーンピースという自然保護団体について考えたり、不意に向こうの会話から耳に入った単語の意味を考えてみたり。
もちろん「散歩」ですから、ずっと喫茶店にいるわけではないですが、どこに行ってもこんな風に語り手はマイペースに様々なことを考えています。人だけでなく、石像や木や建物にまで物語を好き勝手背負わせながら歩くのです。そしてそれを、誰に咎められることもなく、誰に気にかけられることもない。
けれど、冒頭の喫茶店からずっと「あの人」を待っています。あの人の苦手なものや、面倒くさそうなその性格や、そんな「あの人」情報が各編に散らばっています。決して妄想の存在ではない。長く一緒にいて、長く一緒にいるのにずっと待ちぼうけを繰り返しているのです。
この作品で私は多和田葉子さんの文章を初めて読んだのですが、リズム感や話題の転じ方に癖がありつつも目が離せない、異様な引力を感じました。タイトルもとてもいいですよね。孤独、を別の言葉に置き換えているところが。
という3作品でした。
意識せずですが、一人旅が揃ったかたちになりました。いつか意識して、二人以上の旅小説をテーマにした記事も書いてみたいです。
写真やレポートであれば印象も変わるのでしょうが、旅の小説には語り手の内面の深堀も必至のように思えます。今回紹介した3冊も主人公の性格やその魅力について触れざるを得なかったわけですので。そう思うと、有名な場所でも、そうでない場所でも異界でも、行ったその人によって旅は違う。旅はその一つ一つが唯一という気がしますね。
旅本を読んで満たされる人もいれば、余計に行きたくなる人もいるかと思います。現に、私は半々です。どちらにしてもエネルギーのようなものとして、蓄積してやろうという気持ちでいます。
みなさまもよろしければぜひ、この長い夏に旅の本を。
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