サポーターズ読書感想文~宮沢賢治生誕編~
こんにちは。
8月もそろそろ大詰めですが、昨日8/27は我らが宮沢賢治さんのお誕生日でした。
ポラン堂古書店主は、宮沢賢治学会に所属する専門家でございます。今までいろんな記念日にかこつけてブログをやってきた身としては、宮沢賢治の記念日は見逃せない。
ということでちょっとした企画をします。今回はポラン堂古書店サポーターズに声をかけ、作家の阿月まひるさんと、このブログの登場回数も多い江戸川乱歩ファン代表の香椎さんに協力してもらいました。
企画というのが「サポーターズ読書感想文」となります。
あらかじめポラン堂古書店主にマイナーな(世間的にあまり知られていない)、宮沢賢治の短編を10編選んでもらい、その中から我々が一編ずつ選んで読書感想文を書くというものです。皆、学生時代以来の読書感想文になります。大人が書く読書感想文みたいものとしても楽しんでいただければと思います。
まず短編10選がこちらです。
皆さまどれくらいご存知でしょうか。短編集『注文の多い料理店』の収録作も入っていませんし、未発表作品も多いので知らなくても無理はありません。この10選を見るだけで、面白そうとこのブログを引き返していただいてもいいかもしれません。
事前にお伝えなのですが、これからの文章は読書感想文、ですので、ネタバレをしないとか、結末のことは書かないといったルールは設けていません。ネタバレされたくない、という方は、どれも短いので作品を読んでからこのブログを読んでいただいてもいいと思います。
とはいえ、ネタバレによってどうとかなるものではないとも思いますので、そんなに構えずに読んでいただければ嬉しいです。
では始めます。
香椎さん ──「ガドルフの百合」
「ガドルフと恋」
一言で申すならば、「百合に恋するお話、嫌いな日本人いる??」でした。
いません。大好きです。
雷雨の中、雨宿りに入った家の中から、庭に咲く白百合を眺める場面が肝の作品ですが、雷雨の描写が、本当にその場で家が軋む音を聞いているかのように荒々しくて、繊細な百合の描写とのバランスが堪りませんでした。
「マグネシアの焔」だったり、落雷が化学的な言葉で描かれているのがおもしろかったです。遠回しな比喩ではなくて、固有名詞を使った表現って、直接的で、なんだか童話っぽいのかなと思います。直接的なのに、頭の中で想像する焔の色が、読者によって違ったりするからでしょうか。
一番刺さったのが、ガドルフは真っ暗で何も見えない中、雷が落ちて明るくなった一瞬一瞬で百合の姿を捉えるシーン。情報量が少なくて、遠くから見ることしかできない様子が、まさに恋といった感じでした。
私は店主の元教え子ながら、宮沢賢治は「注文の多い料理店」を教科書でかろうじて読んだレベルです。童話もあまり触れてこなかったもので、童話っぽいもの、童話にありそうなファンタジー感ってどのように出すんだろうと考えておりました。
個人の所感ですが、登場人物が人間でなくても成立するお話が、まさしくそれではないかと思います。有名な青い猫が出てくる「銀河鉄道の夜」のアニメ映画がありますが、あれも人間でなくても成立するから猫になったと、店主から聞きました。
今回、これも機会だから!と色々読みましたが、どれも人間でなくても良い。五感があれば成立するお話でした。(五感のどれかがなくても成立するかもしれませんが)
登場人物が人間というだけで、一気に現実味が増してしまいますし、読み手も要らん現実的なことを色々と考えてしまいがちです。
読み手に委ねると言うと聞こえが良くないかもしれませんが、行間が広い小説は楽しいです。
ガドルフはハツカネズかジャコウネズミがいいなと思います。結局は野ネズミです。
蟹のリュックが似合いそうです。
あひる ──「氷河鼠(ひょうがねずみ)の毛皮」
「朝刊だと思って」
恩師である宮沢博士の講義を受けていたので、事前知識があった。まず岩手毎日新聞に掲載された内容であること、そして「イーハトブ」という言葉はこの作品が初出であろうということ。そういう資料的な価値を頭に入れながら、一頁目を開いたのが正直なところだ。
するといきなり「十二月の二十六日の夜八時ベーリング行の列車に乗つてイーハトヴを発つた人たちが、どんな眼にあつたかきつとどなたも知りたいでせう」とくる。新聞記事のようにも思える。少なくとも読者を顔を想定してある。これは四つ折りにした新聞を朝の支度の合間に読むような気持ちで味わった方がよさそうだと、そんな朝があった試しもない私は姿勢を整えた。
もう一つ、事前知識として「熊がトレインジャックをしてくる」話というのが頭にあったが、それは頭の外においやる。熊はジャックしてこないかもしれないし。
ということで新聞と思いながら読んだ。
あのイーハトヴからあのベーリング行に走ったあの列車のことか、確か何日か前ネットでバズってたけど結局どういうことだったんだ、と思いながら読んだ。
吹雪を走る列車の中には紳士が複数いて、痩せた赤ひげの男がいて、なんだか雰囲気のある若い船乗りがいる。紳士は目的地の寒さにはこれで足りるだろうかとかうそぶきながら、自分のまとった毛皮自慢をしている。表題の氷河鼠なんて、首のところの毛皮だけ四百五十匹分使われて彼の上着にされてしまっている。この後黒狐の毛皮を九百枚分とりにいくつもりと話す彼を、私はあーあれだぞ、おまえあとでやられるぞと思いながら読んでいたが、そこにたくさん白熊がピストルを持って入ってくる。まさか熊がトレインジャックしてくるとは。
しかし私にはこの先の知識がない。とはいっても動物たちを私腹を肥やす為に犠牲にしたということで紳士は銃で撃たれずとも、くしゃくしゃの紙屑のようになったりするんだろうと思った。けれど蓋をあけると、なんだか雰囲気のあった若い船乗りが拳銃を奪い、紳士を助け、白熊たちの仲間だった赤ひげを人質にとり、きさまらのしたことは尤もだ、おれたちも生きているんだから仕方がない、けれどこれからはやり過ぎに気を付けるよう言っておくから今回は許してほしい、と言って事なきを得た。
熊たちが去り、その一連に呆気にとられた私だったが、その驚きは拍子抜けのような類ではなかった。紳士が罰せられなかったこと、何を誓うでも約束するでもなく「気を付けるから」と言って終わったこと、それらは教訓という的から最後すれすれに逸れていった銃弾に思えた。大げさなことではない。ストーリーの結末とは言うまでもなく楔だ。それがもし「もう二度としないと誓う」だったら、教訓として受け取らないといけない。私はこの新聞記事に面白かった等という感想は持たず、その台詞のみを太字として記憶してしまうだろう。
このあらすじを通して考えても、何かが起こりそうで何も起こらなかったという逸れ方があり、私のこのもろもろ考えた末の安堵感と物語の現場にあっただろう安堵感は着地点として同じだという気がする。
なるほどよくできた記事だった。拳銃を奪って形勢逆転する臨場感なんて映画『機動戦士ガンダム閃光のハサウェイ』冒頭のハサウェイなみのかっこよさだった。
情報提供は誰かと思えば「きれぎれに風に吹きとばされてきた」と、……まぁ、あの風が吹きとばしてきたというなら間違いないか。
阿月まひるさん ──「 虔十公園林 (けんじゅうこうえんりん)」
「虔十公園林で憩うひとたちへ」
私は虔十をある種の障害者だと思って、だからこそこの話を読んだとき泣けてしまったんだけど、それは悔しさからきたものだという話をする。
私は親が障害者施設の職員で、親は家族と同じくらい職場の利用者のことを愛しているから、生後すぐから私も、親の都合でその施設に行っていた。
幼い私は、自分の耳を塞ぎながら意味のない言葉を叫び続ける利用者が怖かった。
同調されたくはないが、幼い頃の私は利用者の諸兄のことを、怖いし、理解できないし、可哀想だと思った。
同調しないでほしいというのは、そういう環境が割と最近まですぐそばにあった私は、でも障害者に対して差別とか、そこまでいかずとも障害者を上から目線で否定するようなそぶりを、ひとにされるのがすこぶる嫌いだからであるんだ。
利用者のことが怖かった私は、しかし親のことは大好きだった。
だから怖いとか、可哀想とか私が言うと、利用者を愛している親はきっと悲しむだろうなと幼心に理解していたし、そうやって育っていくうちに、他人に似たようなことを言われると私まで本当に腹が立つようになったんだ。
そんなわけで、少なくとも私の目の届くうちではあんまり気軽に言わないでほしいんだな。
当事者はもちろん、当事者じゃなくても悲しむひとがいるってこと、忘れないでほしい。実害を受けたから言ってるんだというひともいるだろうが、それは個人が悪いんであって、一を知って十を知った気持ちで障害者をまとめるのは一旦待ってほしいなと、今はそんな風に思う。
もちろん私も障害者の一くらいしか知らないので、十把一絡げに考えないようにしないとね。私の知ってる障害者の大半が、親の働く施設の利用者なので、今さらだが、彼らを基準に物を言っていると、ここで断っておきたい。
で、そういう環境がすぐそばにあった私は、虔十の生涯を読んでるうち、ちょっと懐かしい気持ちになったんだな。周りから見ると「変」で、子どもたちなんかから笑われ、大人たちからは生ぬるい目で眺められる描写が、利用者に向けられる視線と似てる気がしたのでな。
実際に賢治がどういう気持ちで虔十を書いたかは知れないので、ただ読者の特権として、私はそのように虔十を読み解いたんだと、そこも断っておくね。
さて冒頭に戻るが、私がこの物語で悲しくなったこと、悔しくなったことは、話のオチである。
障害者が評価されるとき、絵とか音楽とかの芸術で世間に認められたというパターンが多い気がしている。
世間の皆さんからどうも見限られてる障害者の、描いた絵、奏でた音が、世間の皆さんの琴線に触れたからだ。
障害者のつくったものに、健常者サマが価値を見いだしたからだ。
そういう系統なんだな、この話のオチは。
虔十が望んで植えて育てた杉の苗を、その成果である林を残すべく、動いたのは博士だった。
かつては虔十を馬鹿にしていた博士。
帰国後、郷愁に吹かれ過去の自分を恥じ入り、お偉いさんのお友達と一緒に、林を大事に守っていくようにした。
かつて虔十を馬鹿にしていた健常者に、虔十の功績を認めさせたという図式ではないかと、悔しくなった私だった。
この気持ちは身勝手な感傷である。勝手に悔しがっとけ、てなもんである。
でもそういう、健常者にとって「わかりやすい」、鑑賞に堪えうるエピソードがなかったら、これからもずっと障害者は見下されていくのだろうかと思ってしまって、それは、たとえば、私や親、私の子どもがいつか、障害者になったときもそのままなんだろうかとの考えに、シームレスに繋がっている。
「わかりやすい」功績がなければ、そのとき、私や親や子どもは、私たちのことを知りもしない人間から、勝手な尺度で見下されて終わるのかと、焦燥感のようなものまで感じる。
ひとは簡単に、あっという間に障害を負うので、遠い未来、違う世界だ、とは思えないのだな。
できれば、私や親や子だけじゃなく、いろんなひとが、障害を負わないようにしよう、じゃなくて、障害を負ったらどうしよう、でもなく、障害を負ってもみんなと同じ土俵で生きていけるようになるのがいいね。現状じゃ無理かな。がんばります。
障害者という文言に、なにかしら思うところのあったあなた。
あなたはどうか、その気持ちを言語化してくれないだろうか。気軽にではなく、たっぷり頭のなかで考えてから、何故なら、と言葉にしてくれないだろうか。
私はこの人生でぼんやり考えていたことを、この作品でなんとか形になった気がするが、一生この考えのままで止まるつもりはないし、できればあなたもそうであってほしいと願う。
私は虔十がもっと他人に反抗してほしかった。
虔十に平二の野郎を殴り返してほしかったな。
もっと言うなら、死なないでほしかった。
あなたやあなたの大切なひとたちが幸せでありますようにと、末筆ながらいつまでもお祈りしております。
以上です。一旦の以上です。
実は9/21は宮沢賢治さんの命日でして、そこですぐ読書感想文第二弾を執り行う予定でございます。このブログを見ているご友人の皆さま、原稿を募集していますのでよろしければ直接ご連絡いただければ、です。
ともあれ賢治作品はもちろんですが、読書感想文というていで、というお題が楽しかったというのが本音です。学生時代から数年を経た大人の読書感想文……だったのですが、そう見えますでしょうか、いかがでしょうか。
夏休みも大詰めということで、当の学生の方々は読書感想文という宿題に悩まされているかもしれません。このブログ記事が参考には思えませんが、本の感想を楽しんで書いている雰囲気さえ伝われば、そこからモチベーションとなるものを受け取ってもらえるかもしれません。読書も楽しいし、感想を伝えることも楽しい、ということで、宿題にある方もない方もこんなふうな楽しみ方はいかがでしょうか。
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