津原泰水さん〈幽明志怪〉シリーズ特集
こんにちは。年の瀬ですねぇ。
今年やり残したことというと、皆さんいかがでしょう。
たくさん思い浮かぶ人も考えるのもおっくうだという人もいらっしゃると思います。
私のこのブログにも、やり残したことはないかい、と語りかける者がありました。来週のテーマはもうはるか古から決まっておりますので、やり残したっことをテーマで書くなら、今回が今年最後のチャンスになります。
そうしてそれは、さして迷うことなく見つかったのでした。
それが、津原泰水さんの特集です。
今年10月2日に津原泰水さんは、58歳で逝去されました。
闘病中であることもふせられておりましたし、今でも病名は明らかにされていません。
本当に突然、寝耳に水で、信じられなくて、嫌だと言って撤回されるならいくらでも駄々をこねて叫びたいくらい、受け容れがたいことでした。
津原泰水さんは、きっと小説家の方の中でもほんの一握りしか持たない、異次元というべき文章力をあまりにも自然に備えていて、しかも多趣味で、博識で、文学に対する理想をいつも高く持っている、ファンを名乗るのも畏れ多いという気持ちにさせる存在でした。
自分は津原泰水をわかっている側の読者なのか、一文一文の真の意図に気付けているだろうか、と勝手にハードルを上げ、SNSにファンだと公言してしまえばお目に触れるかも、その査定が行われてしまうかもとびくびくしておりました。
正直に言えば、このような記事はお亡くなりになったからこそ、書けるのだと思います。
私にはもう一つ、津原泰水さんへの見方があります。津原作品には、高い文章力、インテリジェンスとは別に、たいへんわかりやすい、キャッチ―な、キャラクター小説の魅力があるのです。元々、少女小説家としてデビューなさったわけで、日常の些細な愛らしさで読者のハートをつかむ(敢えてとんでもなく凡庸な言い方をしていますが)なんて、さらっとやってのけるわけです。
これから紹介するシリーズにも、私の心をわしづかみにしたとあるバディが登場します。そして津原氏が自身で幻想作家を名乗ったことを裏付ける、生き生きとした連作短編が並びます。
これから読む人も、読み返す人も幸福であると断言できる3冊です。
『蘆屋家の崩壊』
きっかけは先生(ポラン堂古書店主)から勧められたことでした。
本屋にて先生に紹介され、一頁の一文目を読んでから即刻レジに向かいました。冗談じゃなく、本当に文章の巧さに息を呑んだのです。
大宮にドラキュラ伯爵と綽名されている男がいて仲間内ではたんに伯爵と呼ばれているのだが、生業は怪奇小説を書くことであってその筋では有名らしいからもしも名前を記したらご存知の方があるかもしれない。
私自身、文章で格好をつける作家さんは大好物なので、くどいほどに気障な文章もまた、目を輝かせながら格好いいと思ってしまうのです。しかしながら、やはりこの一文目の魅力は、ただ芝居がかった楽しい語り口というのだけではないですよね。
「ドラキュラ」と呼ばれる、なんて言えば空想に富んでいるふうだけれど、先頭にまず「大宮」を配置している時点で最初から魔法はとけている。「ドラキュラ伯爵」は最初から地に足のつけていて、我々と同じ世界に生きる人として登場するのです。
この後、「一方おれは」と主人公について語られ、さらに現実的ですぐそこにいそうな人間がディテールをもってあらわれます。この文章も素晴らしいですが、あまり言い過ぎるとストーリーに行く前に膨大に語ってしまうので泣く泣く控えます。
ともかくファーストインプレッションはこんな様子でして、付け足して言うと、津原泰水という作家は文章を書くのに何の苦もないのだろうというように感じ、圧倒されたのです。もちろん実際にどうであったかは知る由もないのですが、少なくとも受け取った文章そのものはどのように読んでも余裕に満ちているように思えたのです。
ストーリーは定職にもついていなければ作家でもない「おれ」=猿渡と、「伯爵」と呼ばれる怪奇小説家を中心に展開します。二人が意気投合するに至ったのが、お互いが無類の豆腐好きであるという共通点を知ったことでした。旨い豆腐を食べる為ならどんな遠出も辞さない、という二人です。
彼らの道中には様々な怪奇があり、中でも主人公の猿渡くんがだいぶ女難水難の相を持っているようで、ところどころ淡い予感を感じさせる場面があります。と思っていたらvs巨大な蟹みたいな回もあるのでどうしたところで飽きはきませんし、「埋葬虫」という話の恐ろしさと怪奇幻想っぷりはシリーズを通して考えても一番心に残っています。
そして何より、二人が互いを誘う為に食べ物で釣ったり、騒動に巻き込まれながらも「あそこ後で寄りましょうね」なんて目配せし合ったり、普段から敬語とため口が8:2くらいの割合だったり(津原男子は敬語時々ため口のため口のタイミングがいつも完璧なのです)、大人同士の仲良しが心地良くて楽しいのです。
シリーズの入口ではありますが、気になるところで終わるとか、この後の作品で伏線が回収されるなんてこともありません。お手に取っていただいて損はない一冊です。
『ピカルディの薔薇』
シリーズ2作目にあたりますが、最初にお伝えすべきこととして、たいへん手に入りづらい一冊です。
私の手元にある2012年発刊のちくま文庫版、第一刷は、数年前に大した苦労もせず、『蘆屋家の崩壊』を読み終えてすぐの足でジュンク堂に行き、続編となる二冊を迷わず会計に持っていったものでした。たった数年しか経っていないのですが、信じられないことに今ではジュンク堂、hontoの在庫検索にも引っかからず、紀伊國屋書店のWEBストアにも販売しておらず、アマゾンで検索しようものなら文庫版で1600円、単行本で4000円するというのです。
見かけることがあればたとえ一旦は積読となったとしても、とりあえず買ったほうがいいと思います。調べたらシリーズ全体が稀少本となりつつある模様ですし、もし、愚かなことにこのまま増刷が一切されないままだとすると価値だけがどんどん上がってくることになるでしょう。
と、まぁ作品本体と一切関係のない話を挟んでしまいましたが。
『ピカルディの薔薇』は粗筋が「作家として歩み始めたものの」と始まります。『蘆屋家の崩壊』では定職についていないことが強調され、「今夜梱包の夜勤が」なんて言っていた猿渡ですが、今作からは職業作家を名乗っています。
そうなると不思議なことに語り口は『蘆屋家の崩壊』と変わらないにしても、作家が一人称「おれ」で書いたもの、という認識が読者に刷り込まれ、書き手は果たして正常なのかという外側の楽しみ方ができるようになるのです。
実際、一章目にあたります「夕化粧」の語り手は「わたし」です。「猿渡さん」へ呼びかける手紙的な文体と思えますが、作家の猿渡が書いた短編とも思えます。中盤には「夢三十夜」という夏目漱石のパスティーシュがありますし、『蘆屋家〜』の伯爵と美味しいものを食べに行くついでに怪奇に巻き込まれる、といった形式とは異なっています。文体もそれぞれで、「小説すばる」や「ユリイカ」や掲載誌や執筆タイミングもそれぞれであるので、各誌に掲載された猿渡シリーズの短編集という色が濃いようです。ちょっと寂しいですが、伯爵の登場もだいぶ少ないです。
と言いつつも「籠中花」という短編では、伯爵と一緒になんかキャラの濃い女社長と奄美諸島に行って、vs寄居蟲(やどかり)となったりもしますし、そのあたりの楽しさも全く失われていません。
何よりこの〈幽明志怪〉シリーズとは、猿渡の書く物語をいうのだと核心を捉えることができます。あとがきにて「猿渡とはきわめて曖昧な存在」とあるのも、作者の弁では皮肉であるようだけども、このシリーズの怪奇小説集たる雰囲気を助けているように思えます。
付け足して言うとこのあとがきが毎回面白く、津原さんがどこか不機嫌そうに自作を振り返る文章がとても良いのです。「甘い風」という短編には、「猿渡を主役にして、ウクレレの、ホラーを。テーマは執着」という、これまた悪夢のようなお題だった──と書かれてあって、そりゃもう一度読み返したくなるというもの。
『猫ノ眼時計』
あとがきの最初が、「猿渡ものこと〈幽明志怪〉の最終巻である。」と始まります。作者がいうのだから紛れもない最終巻で、作者が亡くなってしまったのだからもう何も疑いようがなく最終巻です。
最終巻らしい何かが起きているかというと、なんとも云いようがないですけれど、ただ特筆すべきは唯一の中編である「城と山羊」が収録されていることだと思います。
幻想や怪奇、というよりは伯爵と一緒に悪魔崇拝者の集団と戦う娯楽性に満ちた話になりますので、このコンビが大好きな私はご褒美を与えられたかのようにうはうはで読みました。ただ、最終巻と思いつつ読んだからというのもあるかもしれませんが、曖昧ながらも明確に、伯爵と道を違えてしまうシーンがあるのです。
『蘆屋家の崩壊』単行本版のあとがきには、主人公を怪奇の世界に連れていくこの伯爵なる人物が、ある小説家をモデルとしていることが明かされます。しかしながら、文庫版になるとその文章は削除、調べればその小説家と津原さんの交流は途絶していると書いてある。『ピカルディの薔薇』に伯爵の登場回数が減ったのはそういう理由があるかと邪推してしまうのも、無知な読者たる私には無理からぬことなのです。
しかし『猫ノ眼時計』という最終巻において猿渡と伯爵のコンビは復活します。二人で悪魔崇拝者の集団に挑む、なんて漫画や冒険小説のように、二人はバディであるのです。それは伯爵とモデルであったその方が、時を経て別物となったのかもしれず、津原さんにとってモデルになったその方が、どこかしら変わったのかもしれず、それこそ知る由もないことという気がしますが。
道を違えるとは書きましたが、決してつらく苦しいだけの場面ではありません。豆腐で繋がるおじさん二人をどうしてこうもドラマチックに見てしまうのか、不思議なほど、熱くなってしまったシーンで、ともかく素晴らしいバディです。
最後にあらゆる魅力的な会話のうちから一つだけ抜粋します(ちょっとネタバレになるそうな部分は省略しています)。
「猿渡さん、ぼくは想像力を欠く人間です。幼い頃からお伽噺や説話の矛盾を指摘しては、なんと夢のない子かと親に嘆かれていた」
「想像力を欠く小説家というのは珍しくないですか」
「きっと欠損を補完してるんですよ、生涯をかけて」
以上です、が、折に触れ、津原泰水作品はまた何度もこのブログに登場するとは思います。来年以降、まだ本にまとまっていない作品を世に出すことを進めると、関係者の方がツイッターさんで呟いていらっしゃいましたし、読んでいない作品はありますから、まだまだ本当にお別れという気持ちにはなりません。
追悼、という言葉をこの記事のタイトルに入れるか迷って入れなかったのには、どこかそんな意地のような理由があります。
ただ、こうして記事に書いていると、自分がわかっている読者だろうが、わかっていない読者だろうが、もっと公言していれば、もしかすると、ツイッターをさかんにしていた津原さんのことですからお目に触れる機会もあったかもしれないと、ほんのちょこっとだけ思います。お目に触れたからなんだというものではありますが、ただ、本当にたくさんのファンがいらっしゃる作家さんだということは重々承知で言いますが、それでも生前もっともっと評価されるべきであったとは思います。
もっともっと、あの作家さんやあの作家さんたちに一切引けをとらないほど、もっとたくさんの人に知られるべき小説家であったと思います。もし、ご本人が自身の生み出した偉大な作品にたった一点でも、一欠片でも、疑うところがあったとすれば、そんな必要は全くありませんとこの拙い子どもみたいな言葉で、野次馬の声援のような乱雑な聞こえ方だとしても伝わってほしかったと、今更でしかないですが、切実に思ってしまうのです。
津原泰水さん、今年亡くなった、素晴らしい作家さんです。
ぜひどうか、読んでいただけたら、どうか出版関係者の方はとにかく増刷をしまくっていただけたら、いちファンとして幸いでございます。
0コメント