詩歌の棚紹介
こんにちは。
今回もポラン堂古書店の棚紹介をしたいと思いますが、詩歌の棚についてでございます。
ご存知のように、詩歌と言ったところで詩、短歌、川柳、俳句などどれも、ひとくくりにできるもんじゃないというくらいその内容は多様でございます。ポラン堂古書店も「詩歌棚」とまとまっていますけれど、スペース上、一旦同じ棚に同居しましょうという雑多さがあります。しかしだからこそ、豪華な棚です。
本屋に行って詩歌の棚に行くことがないな、という方、詩歌棚はおすすめです。装丁も美しく、タイトルも特徴的ないしものによっては衝撃的で、びびっとくる出会いがそこにあるかもしれません。
写真にある本のうち、今回は三冊紹介します。
木下龍也/岡野大嗣『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』
本屋めぐりが好きな方にはお馴染みの一冊ではないのでしょうか。どの本屋も表出ししたいくらい、書影とタイトルが美しく、作品としても斬新。知ってしまうと誰かに紹介したくなるというものすごい引力をもった短歌集です。
男子高校生ふたりの七日間をふたりの歌人が短歌で描いた物語……、というあらすじのみ開示され、段違いに、交互に短歌が繰り返されます。
二人の男子高校生のやりとりというよりは、淡々と彼らの思ったことが連なっていく。彼らが一緒にいるかすら定かではないのですが、雷雨などの天気の描写は当たり前のように重なり、状況もシンクロし、こちらが察せないところは読者に踏み込めない彼らだけの聖域のような気がしてくるのです。
7/1の章から始まり1日ずつ進むのかと思いきや、いきなり7/7に日にちがとんで、短歌の様子もおかしくなってきます。そういった仕掛けからもミステリに違いないのですが、実際、見て明らかな通り行間が凄まじく、ふたりがどうなったのかは読む人にとって見解が変わりそうに思えます。
特典として舞上王太郎氏の掌編をついてあるのですが(ポラン堂古書店に売っているのはその特典付です)、彼らが何なのかの補完というよりは、あくまでその周りと思われるところの描写となっています。
現代短歌の代表格、木下龍也と岡野大嗣の両人も知っておいて損はないはず。最初の名前を表記した頁で示されるように、各頁開いて天付きで書かれてあるのが木下龍也、二マス分下げて書かれてあるのが岡野大嗣、と見分けることができる仕掛けとなっています。
あまりに鋭く、胸に刺さるような短歌が続くので、この両人の名前も頭から離れなくなると思います。
邦題になるとき消えたtheのように 何かがぼくの日々に足りない(木下龍也)
なんつうかまああれだなあ信長はよくあと三十年も生きたな(岡野大嗣)
玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ(岡野大嗣)
穂村弘/東直子『回転ドアは、順番に』
『とりつくしま』などの作品で知られる小説家で歌人の東直子さんと、あの穂村弘さんが、短歌と詩によって、ある男女の出会いと別れを描いていく往復書簡です。
あの穂村弘さん……現代歌人といえば、ですよね。
大ヒット映画『花束のような恋をした』の、個人的瞬間最高視聴率を記録したあの名場面、お互いの持っている文庫を見せ合うシーンにて、麦(菅田将暉さん)が持っていたほう、でおなじみ穂村弘さんです。(絹=有村架純さんが持っていたほうが長嶋有氏)
と、いうとご存知の方には、なんだその覚え方は、と思われてしまいそうですが、雑誌「ダ・ヴィンチ」で「短歌ください」のコーナーを毎号していたり、『もしもし、運命の人ですか。』『絶叫委員会』などエッセイも楽しかったりする素敵な歌人です。
『回転ドアは、突然に』の内容ですが、ラブストーリーは突然に、のもじりにしては、回転ドアというチョイスが面白味があって良いですよね。実際二人の出会いが回転ドアにうまく入れないかわいそうな人、という第一印象から始まるのも少し滑稽なのですが、実在しそうなくらい自然なドラマチックがそこにあります。
物語の筋はくっきりとしてあるので、読みやすく、入りやすい世界だと思います。何より恋愛の歌集を味わってみたい人には酸いも甘いもあって存分に楽しめるのではないでしょうか。
東さんが明朝体、穂村さんがゴシック体なのですが、そこを本文にて言及しないあたりもお洒落です。最後に自作解説があるので、行間を想像できながらも答え合わせですっきりとできるところも多いと思います。
目の奥に夜をおさめてやさしかった真昼のことを胸にとかした(東直子)
震えながら海からあがるもういいやモスバーガーに眠りにゆこう(穂村弘)
うわごとで名前を呼んでくださればゆきましたのに電車にゆられ(東直子)
谷川俊太郎/田中渉『あなたはそこに』
谷川俊太郎氏の詩「あなたはそこに」に、田中渉氏の優しい水彩イラストがついた絵本のような一冊になります。
24行の短い詩でありながら、ある人との出会いから別れまでを綴った恋愛詩でもあります。しかし恋愛詩という限定された内容でもないと私個人は思っていて、この詩のある一節は学生だった当時、この本の頁からそれを見、その場から動けなくなったほど衝撃的だったのです。
ネットの中にある読者の反響には「救われた」や「好きな人に会いたくなった」などがあるそうです。当時の私はどうだったかというと、おそらくその真逆だったように思います。ありていに言えば、寂しくてたまらなくなった、でしょうか。
それから先、その言葉には何度も出会い直し、肯定的にも批評的にもとらえ直し、ただそのたび言葉に出会うというのはこれほどいつまでも尾を引くのだろうかと不思議な、恥ずかしいような気持ちになったりもします。
詩そのものは有名ですし、伏せる必要もないと思いますので引用させていただきます。
心配なさらなくても、刺さる人には何度も出会い直すことになる一節です。
ほんとうに出会った者に別れはこない
心が少しでも揺れたぞって方は、まずぜひ詩で、よろしければ田中渉氏の水彩画つきの一冊から、また出会い直しをしてみていただければと思います。
ということで、今回取り上げた三冊、勘が冴えている方には、なんだ、物語をつくる歌ばかりではないかと思われたのではないでしょうか。そういうまとめになりました。ご容赦ください。実際歌集というのは、ふと思い立ったときどの頁を開いても言葉の世界があるという、一つ一つが完結しているものが多いと思います。そういった歌集を否定する気持ちはさらさらなく、半ば偶然物語的なもので偏ってしまったので、またそういった特集もしたいなと思っています。
詩歌、の楽しみ方は二つの要素に分けられると勝手に思っています。
行間があり、受け取り方が読み手に委ねられているのだ、という要素と、一方で、たった一つの単語、助詞、その並べ方などで作者の伝えたい情景がちゃんとわかるという技巧的な要素です。特に、私は昔、高校生の頃に俳句甲子園に関わっていたこともあり、その技巧的な側面に気付き、奥深さに魅了されました。
もし詩歌が苦手だという方がいるとしたらその読み手頼みという意味での「行間」という気がするのですが、実際読んでみていただければ、歌人たちが技巧的に、それこそ物語を奏でられるくらいに緻密に行間を導いているのがわかります。そうすると、ああこの言葉だけでと、例えば岡野大嗣さんの「玄関の覗き穴~」の最後の「はずだ」にある不穏な役割や、東直子さんの「目の奥に夜をおさめて」の、目を閉じることを言い換える美しさなど、その精密さに痺れたりします。
あくまで私個人の楽しみ方ですけども、詩歌の本を手に取ったことがあまりないなという方はぜひ手に取って、開いてみていただければと思います。
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